【ウ】ヴァン・ナチュール

ますます活況を呈しているかに思われる、自然派のワイン群。ほんの一年ほどの間に、また少し様相が変わってきた気がする。

かつて、亜硫酸無添加、オーガニック、ビオディナミ、リュットレゾネなどなど色んなキーワードが、この市場を盛り上げてきたが、今語られるワードは「ヴァン・ナチュール」ではないだろうか。

2014年に「自然派ワイン」というキーワードを取り上げた際に危惧していた、このジャンルを愛する人たちの排他的な嗜好は、予測どおり一段と激しさを増している気がするのだが、まあそれは想定の範囲内

とはいえ我々の立場からすると、ボルドーカリフォルニアといった産地のワインを全否定されるというのは、「そもそもワインってぶどうから作った醸造酒のことですよね?」という確認はしておきたくなってしまう。

そしてユーザの排他的な盲信とは別に、この手のワインがワインマーケットに広がってくる中で、新たな問題が発生している。

それはすなわち、今現在のヴァン・ナチュールの旗手、と呼ばれるような作り手の皆さんのワインの類似性だ。つまり製法依存で生まれるこのカテゴリに含まれるワインは、みんなおなじ香りがするのだ。品種の特徴や産地の個性が後回しになった、ヴァン・ナチュールというワイン群が生まれている気がしてならない。

この手の味わいのワインをワインという酒だと思ってしまうと、そりゃたしかにガチガチのメドックや、新樽のバニラ&ビターチョコ漂うカリフォルニアとかを毛嫌いするワイン好きが生まれてしまうのも理解できてしまう。

だけどいっておくけど、こっちが「歴史あるワインという飲み物」だからね。

そもそも以前の記事でも取り上げたが、我々は好みの問題でヴァン・ナチュールを選択する機会は少ないかもしれないけど、否定はしていないからね。そういうジャンルのワイン、そういう理想を掲げた作り手がいることは受容しているんです。なのにこのヴァン・ナチュール党の皆さんは、まるでトラディショナルなスタイルのワインを悪のように批判する。そして飲もうとしない。

もしワインが長い時を経て変化する美しさを持った飲み物でなければ、それでいいのかもしれないけれど、そうであるからこそ歴史の上を生き残ってきたのではなかろうか。なんだかワインのアイデンティティやレゾンデートルに関わる問題のような気がしてきている。

ただふと思い当たったのだが、このムーヴメント、20世紀末のブルゴーニュに似てませんか?

某評論家さんの点数をもらうことが、土地の個性を活かしたその地ならではのワインを作ること以上の目的になり、低温浸漬、大量のSO2添加をほどこした、真っ黒けでローストの香り漂うピノ・ノワールが生まれまくった時代。某コンサルタントがそのスタイルのワイン作りに関わって、目的どおり高評価得点を獲得するブルゴーニュワインが氾濫した世紀末。作り手の個性もアペラシオンの個性もない、ただ色濃いピノが濫造された時代があった。

結果、どうなりましたっけ。

ブルゴーニュのワイン、すなわちピノ・ノワールって、こんなワインだっけ? って、世界中のワインファンがふと我に返り、作っている人たちも夢から覚めて、気付いたらコンサルタントは失脚してませんでしたっけ。

ヴァン・ナチュールと呼ばれるワインが自然派の中でも飛びぬけた革新派の急先鋒のようになっているけれど、普通に農薬を使わないようにしている作り手なんて昔からいたわけで、無農薬、減農薬とは別の目的が生まれてしまった意地っ張りの子どものようなこのジャンルは、ワインに個性がない。

どの国のどのぶどうも、あのおなじ茹でた小豆のような香りに支配されてしまっていて、個性がない。ほら、まさにあの時代のブルゴーニュの再来だ。

ただ20世紀末ブルゴーニュワインと、今回のムーヴメントには大きな違いがある。

ギィ・アッカは賛否両論の挙句、結果的に石もて追われるようにワイン界を去ったが、彼の指導によって作られたワインは、長い時を経た今、美味しくなっているのだ。そりゃそうだ。技巧を凝らしすぎてなんだかちょっとヤッっちまったせいで追われてしまったが、彼が作ったのは異常に重ね着をした、厚化粧のピノだったわけなのだから。

つまり十年で飲み頃になるはずのピノを三十年後に飲み頃を迎えるワインにしてしまったということだ。彼のスタイルが見直されることはやっぱりないと思うけれど、1990年代に彼が残したワインは、今飲めば美味しい貴重な史跡なのだ。たとえるなら滅亡した古代文明の遺跡のようなものだ。もう二度とよみがえりはしないだろう。

しかしそもそも彼の思想が、評論家の高得点を得るということことではなく、1900年代初頭のブルゴーニュワインが色濃く作られていたということを知り、それを再現するためにそのスタイルをつきつめたということらしいので、学術的な価値があるのではなかろうか。そこに濃厚ワイン好きの評論家と、高得点獲得でワインを売り出したい作り手という不幸なトライアングルピースがたまたまそろってしまったのが、あの時代だったのだ。

学究的な側面を持ってスタートしたあの時代と比較して、多分今回のムーヴメントは、単なる今の自分の生活に不満を持っている働きもしない若者たちが起こした、イベントのようなエセデモ行動に過ぎないのではないか。なぜなら三十年後どころか、彼らの作るワインは十年後ですら飲めるかどうか怪しいからだ。いや、五年後ですら怪しい。

そしていまさら、1999年の時点で書いた「亜硫酸無添加ワイン」というネタに回帰していることに気付き、ああ時代はめぐるってこのことなんだなあ、と考える私がいます。