未来への祝辞~Audio Commentary MIX
アミューズ
時の流れは速く、そして誰にも止められるものではない。
わたしたちの記憶に深く刻み込まれたあのムルソー事変は、もはや遠い昔のできごとだ。
オードヴル
いつの時代もどんな場所でも、いつもなにかが起きている。
たとえばわたしがワインを飲んでいるその瞬間に、世界のどこかでは間違いなく新たな生命が誕生している。
あなたがムルソーのグラスを傾けた瞬間に、どこかで生ハムがスライスされているかもしれないし、お好み焼きがひっくり返されているかもしれない。
そしてもし、あなたがそのグラスをおかわりしなければ、あの戦争は起きなかったかもしれないのだ。
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学術的にはそれをムルソー効果という。
違う。
バタフライ効果だ。
(ぱくたそさんからお借りしています)
つまり世界のどこかでムルソーのグラスがおかわりされる。
もとい
蝶が羽ばたく、
すると
桶屋が儲かるわけだ。
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ポワッソン~ムルソー事変、その後
さて、本題です。
ムルソー事変についてはWinekipediaに詳細がまとめられているので、そちらを見ていただくとして、あのできごとをあらためて振り返ってみると、結論としては世代間のギャップということにつきると思うのです。
ワインブームとやらはすっかり落ち着き、日本は猫も杓子もワインワインと騒ぎ立てる市場ではなくなりました。
しかし過ぎ去ったブームなのではなく、騒がなくてよくなったということなのです。
日本人のライフスタイルにワインが定着したため、ワインを飲む姿をあえて取り上げる必要がなくなったのだと思います。
(何ならビールと一緒に頼んじゃったりもします。あの頃こんなことすると激ギレするお店もあったんじゃないでしょうか。そもそもビール置いてないとか)
事変による被災者はわたしたちの世代すべてです。
そしてそれはその世代にとって感慨深い事実でもありました。
なぜならその世代は、どうすれば日本の家庭で日常的にワインを楽しんでもらえるようになるか、常に考え、行動し、頭をフル回転させ、ときにはみずから陣頭に立ってきた世代だからです。
その世代がワインのために駆けずり回っていた頃から比べると、本当にワインは日本人の生活に根付きました。
あの頃ワインというとフランス料理店に行ったときに、どうしても飲まないわけにいかなくて、ソムリエさんにワインを勧められると緊張しまくったものです。
いや、
むしろ
ソムリエさんが怖かった。
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「ワインはいかがなさいますか」という科白をどうやって乗り越えるかが、
フランス料理店から生還するための最大の難関、
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ラスボス
(NAVERまとめ「ドラゴンクエスト モンスターデザインイラスト集[鳥山明][ドラクエ][図鑑]」よりお借りしました)
だったといえるかもしれません。
それが今ではどうでしょう。
特にワイン愛好家というわけではなくても、月に一度か二度、ワインを口にする機会がありませんか。
自宅近くのコンビニ、昨日同僚と飲みに行った居酒屋、先週末の友人宅でのホームパーティ。
どこにでもワインの存在がありませんか。
これが今の日本の飲酒事情で、そしてその状況が確立されたのは、わずかここ二十年の話なのです。
きっかけは、日本人ソムリエの世界ソムリエコンクール優勝という偉業です。
その偉業は次世代のワイン業をになう者たちに大きな勇気を与えました。
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しかし世界一のソムリエが日本から誕生したとしても、多くの人たちがワインの普及に努めなければ、わずか二十年でこれほどまでに日本人の食卓に変化は訪れなかったとわたしは思います。
一人の行動、活動にはその範囲に物理的な限界があります。
もちろん偉大なソムリエの理想は、いつか必ず日本人のワインに対する恐怖心や警戒心を取り除き、そしてワインに親しむ姿を実現したでしょう。
しかしその普及に努めるものが物理的に一人の人間であったとしたら、一年、二年という期間で、その結果を出せる範囲は限られたと思うのです。
この日本市場の状況はいずれ生まれたとしても、それは十数年後という未来の話だったのではないでしょうか。
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その期間を飛躍的に短縮したのは、
伝道師たるものたち
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の存在です。
理念を掲げることは一人にしかできなくとも、その理念に共感することは誰にでもできます。
そしてその中から、その理念を広めようとするものが出たとき、伝播という現象がうまれるのです。
福島県立清陵情報高等学校 - Wikipedia
(こちらは伝播ではなく電波です。ゆんゆん)
ヴィアンド~ムルソー事変、その後
キリストには弟子がいました。
エドガー・アラン・ポーには後継者がいました。
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だからキリスト教は広まり、推理小説は書き継がれているのです。
後世においてムルソー事変と呼ばれるひとつのできごとの口火を切ったのは、わたしが推測するに、今からソムリエ試験を受けようとしている若きワイン愛好者、若きソムリエだと思います。
そしてそれを受けて立つ立場になってしまったのは、先輩世代に当たる側でした。
その構図はまるで、
夜の校舎の窓のガラスを壊して回る彼ら
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と
対峙する学園ドラマの教師
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の姿のようにも見えました。
「おとなになんて、なにがわかる!」
君はそう叫ぶかもしれません。
しかしその叫びはかつてわたしたちが声を張り上げたものとおなじです。
なんといってもわたしたちは新人類と呼ばれた世代ですよ。
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先達からわからないといわれることは体験しています。
理解できないと十把ひとからげにメディアに取り上げられたのですから。
逆に君がわたしたちの心のうちを察することができないのは経験の不足によるものです。
わたしたちが君にとって価値観を異にする存在だなんてことはありえません。
もし君がワインの世界にその足を踏み入れようとしているのなら、その時点で君はもう仲間です。
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ただわたしたちは君よりもたくさんの経験をしてきた中で、君がいま一番大切にしている価値観を最終的な武器には選ばなかった。
ただそれだけのことなのです。
その武器を知らないわけではない、威力も効果もわかっています。
今それを手にしていない理由は、
それが
「きのぼう」
だからです。
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君がいまスライムをボコってるその武器は次の町を出る頃には役に立たなくなっています。
わたしたちは先にそれを経験しました。
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そんなわたしたちの世代もすでに長くワインというものに触れ、そしてそれを趣味嗜好の範囲を超えて取り扱ってきました。
そういう意味では、ワインに対するスタンスにゆとりがあります。
なぜなら、ワインというものがすでに自身の中で消化できていて、理想だけで突っ走ることもなく、しかし理想だけを追い求めた経験があるから、その世代の体内で燃え盛るワインだけをターゲットにした炎の温度を知り尽くしているからです。
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いま冒険の旅に出たばかりの君からすると、わたしたちの世代はそれぞれの「しょくぎょう」につきそれぞれの「ぶき」を持つマップの中の個々のキャラクターでしょう。
しかし、たとえば今現在わたしが「まほうつかい」で、彼女が「おどりこ」であったとしても、わたしたちの誰もがかつてはみな、「ゆうしゃ」だったのです。
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ただ次の町へ、さらに次の町へと進み、パーティが大きくなるごとに、自分とおなじ職業のより凄い存在を知りました。
その中でそれぞれがみずからを一番活かせる道を模索し、そして選び、職業やステータスを活かす武器を手にし、そして個々の技を磨くことになったのです。
しかし、今現在まさに勇者たる君の瞳には、わたしがHP不足の魔法使いに見えたり、彼女がパワーの足りない踊り子に見えたりするかもしれません。
わたしは思います。
君たちがもしわたしたちにライバル心を燃やしているのだとしても、わたしたちはそれを見守ります。
なぜならば君たちの世代の自尊心は、尊重すべきものだからです。
わたしたちの年代になると、社会的な立場や業界的な立ち位置や、家族のステータスはそれぞれ確立されています。
これはゆるぎないもので、その変化は緩やかです。
外的要因で簡単に破綻することがない代わりに、
まさかのブーストアップもしません。
もう確変は起きない
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のです。
しかし君たちの年代には限りない可能性があります。
ちょっとしたきっかけやめぐりあわせ、人脈ひとつで、明日から別の生活が待っているかもしれません。
オーバーナイトサクセス、
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ワンヒットワンダー、
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そんな可能性があるのです。
それはわたし自身が君たちの年の頃に体験しているのだから、間違いありません。
そのためにも野望を持ってください。
それが必ず君を大成功に導くとはいいません。
しかし野望のない人に大成功する日は絶対に来ないということだけはいいきれます。
なぜなら、
わたしが大成功していないから
です。
わたしは
を
まったく更新もしなかった
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にも関わらず、それをきっかけにたくさんのチャンスをもらい、そしてその波に乗りました。
結果、青春時代にあこがれた東京で暮らせるようになり、ワインを山のように口にできることになり、書いたものが活字にしてもらえる機会を得、世間でいうところの一流企業に籍を置かせてもらい、そしてたくさんの友人が出来ました。
だからわたしの人生は幸せです。
しかし、お金持ちではありません。
そのことを「どうしてだろう?」と考えたとき、思い至ったのです。
わたしには野望がありませんでした。
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表の顔として企業の一員として生きてきましたが、やりたいことだけをやってきました。
ときに異動を拒否し、昇進を断りました。
わたしがほしかったのはお金でもなければ名誉でもなく、好きなことをし続けたい、好きな人たちと過ごしていたい、共感できる人たちとともに喜べることをしていたい。
それだけでした。
今になって思うのは、それらのすべて希望であり、野望ではありません。
希望とは自身の求めるもの。
そのリターンに自力以上のものはありえません。
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一方、野望とは自分の目指すステータスにたどり着くための明確な戦略の素になるものです。
そしてその実現のために味わう、我慢の時期や修行の苦しさを耐え抜くための必要不可欠な栄養素でもあります。
苦しみやつらさも、もし何年後にどうなっていたいという明確なゴールがあれば、よほど理不尽なハラスメントのようなものと出会わない限り、乗り越えていける試練なのです。
希望は叶えれば日々満足です。
野望は苦しい時期の先にかなう、究極のゴールを目指すための信念です。
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噛み砕いていうと、希望を叶えるのは日々の戦闘です。
この作戦、この作戦と日々勝つたびに命はつながります。
そしてそのテンポラリーな勝利を祝う一杯のグラスで心は満たされ、そのかわりまた明日もその日勝つためだけに銃をとることになるのです。
野望は長期的展望の上に成り立つ戦略です。
局地戦ひとつくらい苦汁をなめたとしても、最終的に勝てば日々のドンパチなど問題にならないくらい大きな視点で成り立つものなのです。
今あらゆる可能性にあふれる君たちには、野望をずっと持っていてほしいと思います。
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わたしたちは、君たちを応援しています。
求められれは援助もします。
実際、わたしたち世代は後輩を連れて飲みに行く機会も増えました。
そのトリガーは後輩からのこんな誘いだったりすることが多々あります。
「ちょっと聞いてほしい話があるんすよ。飲みいきませんかーーーー!?」
わたしは喜んで応え、そして二人飲みであればご馳走します。
そういうことが重なると、彼ら彼女らはありがたいことに、こういってくれるときがあります。
「今日はごちそうさせてください!」
そんなときわたしはいいます。
君たちにもいつか後輩ができ、
そしてその後輩が悩みや愚痴、相談事をかかえてお前のところに来る日がきっと来るよ、
と。
わたしにごちそうするくらいなら、そのお金をいつか来るその日に後輩のためにつかってやれよ、と。
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わたしも若い日々、先輩においしいワインを飲みにつれてもらい、そのうえで愚痴り、そしてごちそうになりました。
そしてそれがあったから、わたしは今もやっていけてるのです。
幸いわたしの年若き友人たちは、そんなわたしの言葉に微笑んで「ごちそうさまです!」と答えてくれます。
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ムルソー事変のそもそもの口火を切った、ソムリエ志望の若者は、
(忘れてそうだからもう一回リンクしとくな!)
君の合格を応援してくれる先輩に、そしてもしその試験に受かったらさらにこの世界での成功をサポートしてくれる先輩に一方的に噛みついたことの重みに気付いているかもしれませんし、いないかもしれません。
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しかしこの狭く奥深い世界に本当に君が足を踏み入れたとしたら、わたしたちと出会わずに仕事をしていくことはできないでしょう。
そしてそのときに気付けばいいのです。
血気盛んな若き日の自分の姿に。
そして忘れないでください。
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今の君が血潮のたぎるあまり手当たり次第に吠えているその姿を、わたしたちが頼もしく思っていることを。
いつか君が自身の進んできた道程を振り返れば、今日の君とおなじようなぎらついた瞳の若者がその道を追いかけていることを。
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デセール~未来への祝辞
いつか今君の見ている未来が、現在になったとき。
君が幸せでいることを祈ります。
未来の幸せを、わたしたちみんなが祈っているのです。
野望なきわたしが手に入れることのできなかった未来を手にしたのは君かもしれないのです。
おめでとう。
心から。
君の幸せを願ってやみません。
わたしは、この世代を代表して未来におめでとうという言葉をささげます。
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ブテイ・フール~業務連絡
あの頃のテキストサイトのためにためて画像を入れるバージョンと、今だからできるアフィリエイトリンクが融合したら、こんな感じになりました。
カフェ~セルフレビュー
書き始めた当初は、完璧にこの再現を目指していたのですが、いざところどころに画像を入れるとなると、あのころとは違っていろいろと気になることが多く、いっそそれなら当時はなかったアフィリエイトを思いっきり使ってみようという話になりました。
アィリエイトに関しては、「トケイヤ」をこの場所に移したときに導入してみて、商品名をネタ本文に合わせて書き換えると面白いなと思っていたのですが、それを全編に散らばしてみると、なんだかドラマの副音声でやっている、役者さんたちのコメンタリのようになりました。
テンション高いといわれ続けていたトケイヤのコンテンツですが、もともと自分にはいつも冷めた視点があったので、こういう作りにはむいているんです。実は。
本人としては、20世紀末のネット黎明期と、21世紀になり平成も最後の年を迎えたある程度の成熟をはたした発展期との融合した感じがわりと気に入ってます。
唯一の不安は、あの頃このサイトを愛読してくれた皆さんが読むと、往年の名曲にありがちな「昔の歌い方で歌ってほしかった」みたいなセルフカバーになってないかどうかという点くらいです。
最後に動画リンクいれるんかーーーーーーい!!
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